タイのプミポン国王が、世界の王の中で最も長い70年という即位を経て逝去されました。
日本に住んでいると、「タイってあの、料理が辛いところでしょ?」くらいのイメージしかないと思いますし、そもそもプミポン国王と言われても「だれ?」という感じだと思いますが、タイの国民にとっては、
「プミポン国王!! 永遠に生きてくれーーー!!」
と願わせるほどの人物だったのです。
そんなふうに愛されていた、プミポン国王とはいったい何者?
そして、なぜタイ国民は、今後について不安を持っているの?
今回はそんなタイの歴史と今後の不安について、わかりやすく解説します。
参照:Wikipedia■若き日のプミポン国王。銀行の経理マンと言われても納得できる、とてもまじめなお姿。
参照:http://www.dailymail.co.uk/news/article-3702849/Thai-police-detain-British-writers-wife-royal-photos.html■出オチみたいで嫌なんですけど、息子で新国王となったワチラーロンコーン(入れ墨ペイントしてる人)。これで誰が安心するのよ。
わかりやすい、プミポン国王が尊敬を集めるまでの流れ
即位まで
もともとプミポン国王はスムーズに王となったわけではなく、その即位には今も多くの疑惑が残されています。
前王、ラーマ7世が逝去した際、次期王となるはずだったのは、プミポン国王の兄であるアーナンタマヒドン。
当時は第二次世界大戦の真っただ中であったため、アーナンタマヒドンはスイスに留学という名の避難をしており、大戦が終わった1945年、いよいよタイに帰国して王となったのです。
しかし帰国するやいなや、自室のベッドで射殺体となって見つかるという大事件が起こり、他殺であるという検死結果が出たものの、いまだにその犯人が誰かはわかっておりません。
タイ警察は、とりあえず当時宮殿にいた召使いのチャリアオなど3人を死刑にしましたが、なにひとつとして証拠がなく、3人も容疑を否認し続けたため、今をもって真相は闇の中です。
タイでは、王族のことを悪く言うと不敬罪によって逮捕されることから、議論自体が許されておらず、今後も真相が明らかになることはないと思われます。
この事件を扱った日本語ページはほとんどないですが、タイのWikipediaには詳しく載っています。
参照:Wikipedia■若くして凶弾に倒れたラーマ8世、アーナンタマヒドン。王となった時わずか10歳であり、スイスに避難していた。彼の突然の死により、弟のプミポンが王となる。
王としてクーデターを治める
はっきり言って、この状況でプミポン国王が即位すると、誰がどう見ても怪しいんじゃないのと疑惑をもってしまうことは避けられません。
実際にタイでも、プミポン国王の即位時、「この人を信じてもいいの!?」という疑惑が国民の中を駆け巡りましたが、プミポン国王は行動でそれを跳ね返していきます。
特に大きかったのが『暗黒の5月事件』で、1991年のタイではクーデターが起こり、軍を手に入れたスチンダーがそのまま首相となりました。
しかしこれに反発した国民が抗議デモを起こし、スチンダーは軍事力でこれを鎮圧、300名もの死者が出ることになったのです。
この時、日本でいえば天皇にあたるプミポン国王は、スチンダーと民間指導者のチャムロンを呼び寄せ、「そんなことで国民のためになるか! 二人ともいい加減にしろ!」と怒鳴りつけてこの争いを終わらせたのです。
タイのWikipediaに、この時の画像が残されています。
参照:Wikipedia
中央でお姉さん座りをしているのがスチンダー首相。
左でペタン座りをしているのがチャムロン。
右でそれを叱りつけているのがプミポン国王です。
なんでこんなニューハーフバーの反省会みたいな構図しか残されていないんですかね…。
もっとこう、威厳ある構図の写真なかったんですかね…。
しかし、プミポン国王のこの行動により、スチンダー政権は解散し、国民たちはこう感じさせられたのです。
「なにかが間違っても、必ずプミポン国王が正してくれるはずだ」
こうした思いは、次々とプミポン国王の行動によって裏付けられ、根強いものとなっていきました。
悪党の行動に反応するな!
プミポン国王の信頼を確固たるものとした事件が2003年に起きました。
カンボジアの雑誌で、タイの女優が
「アンコールワットはもともとタイのものだったのに、カンボジアに取られてしまって、まじカンボジア嫌い、アンコールワット返せ!」
と発言したとカンボジア国内で報道されたのです。※出典
これによってカンボジアは激怒。実際にはカンボジア雑誌のデマだったのですが、カンボジア首相は「おめーーーのテレビ放映禁止!!」と強く批判し炎上してしまいます。
カンボジア国民は怒り狂い、「タイの大使館に火をつけましょうや!」と3000人が大使館を包囲。火を放ったり、プミポン国王の肖像画を踏みつけたりしたため、今度はこれにタイ国民が激怒。
「おめーがやるならこっちもやってやるよ!!」とカンボジア大使館をタイ国民500人が囲み、カンボジア国旗を燃やすなどして報復に出ます。人間の戦争とは、いつもこのようにして報復が繰り返されエスカレートし、しまいには取り返しのつかない事態に陥ってしまうのです。
ここでプミポン国王がタイ国民に、「悪党の行動に反応してはならない!」と告げたため、一気にタイでの熱は沈静化されます。
その後、カンボジアでも「雑誌のデマで炎上してしまった…事件の関係者は逮捕します」と150名が逮捕、一時期はタイとカンボジアの国境が封鎖される騒ぎにまで発展しましたが、無事収束へと向かったのです。
この時の「悪党の行動に反応してはならない」は、タイ国民の胸の内を治めるには十分な言葉であり、プミポン国王が人格者であることを改めてタイ国民に感じさせた出来事でもありました。
また、これらと並行して、プミポン国王は『国民が自分に話しかける際、王室言葉を使わなくてもよい』と取り決めたり、王室の財産を農村復興に投じるなどの活動を行い続けたため、国民は尊敬する人物の名にプミポン国王を挙げるような存在となったのです。
プミポン国王の跡を継ぐワチラーロンコーンとは
そしてこの人々に愛されたプミポン国王が、2016年10月13日、88歳にして逝去。
その跡を継ぐ人間が、プミポン国王の息子・ワチラーロンコーンでした。
参照:http://www.dailymail.co.uk/news/article-3702849/Thai-police-detain-British-writers-wife-royal-photos.html
この男にどこのなにを継げるのかと思わせる異様なたたずまい。
86代目Jソウルブラザーズでもここまで攻めたファッションはしないというような、女物のタンクトップに、ローライズっぽいジーンズにサンダル。これでこの男64歳なのです。(入れ墨はペイントシール)
この写真は若い女性と別荘に行く際の写真ですが、64歳にしてあまりにも不道徳に元気すぎます。
実際に彼は、知られているだけでも3人の女性と結婚・離婚をしていますが、その中にはナイトクラブのストリッパーまでおり、多くの人々が集まるパーティに妻を裸で出席させるなど、度を越した遊び人っぷりを見せているのです。
これにはプミポン国王も頭を悩ませており、本来、王位継承者はワチラーロンコーン以外に有り得ないのですが、次女のシリントーン王女にも王位継承権を与え、いざというときに備えていることがわかります。
■シリントーン王女 参照:Wikipedia
実際、次女のシリントーン王女はタイ国王としてふさわしい人格者であり、プミポン国王も彼女を次期国王に推薦しています。
ワチラーロンコーンが国王になった今、タイ国民は誰もが、
ワチラーロンコーン「もしかして」
シリントーン「わたしたち」
二人「「入れ替わってるーーー!?」」
と『君の名は。』みたいな展開になれと願っているのです。
実際、プミポン国王はシリントーンを次期国王に推しているのですが、シリキット女王はワチラーロンコーンが次期国王だと譲らず、これは完全に派閥争いへと発展しています。
プミポン国王と、富裕層や陸軍が支持するシリントーン。
シリキット女王と、タクシン元首相(元警察官僚)や警察が支持するワチラーロンコーン。
そもそも、プミポン国王が88歳になりながらも、決して王を退位せず、次の国王も決めずにいたのは、これらの問題を解決できていなかったからだと容易に推測できます。
果たして、今後のタイはどうなってしまうのでしょうか。
タイの叡智ある歴史、そして未来は
タイは、日本から見ると後進国に見えますが、その外交手腕においては歴史上はるかに優れている側面を持っています。
かの第二次世界大戦においても、タイは日本の味方として宣戦布告後、戦争に参加しましたが、B29などの爆撃を受けながら、日本にも連合国にもいい顔をし、どちらが勝ってもうまくそちら側にシフトできるように計算していたのです。
戦争は日本が負けたわけですが、その瞬間「うちが日本と一緒に連合軍に宣戦布告したやつ、あれ無効ね!」と言い出し、実際にそれを政治力で通してしまい、タイは敗戦国の中にカウントされていません。(日本が負ける前から、「うちはある意味で連合国の味方ですよ」というアピール工作を入念にしていました。日本には「日本の味方です!」と言っています)
もともとタイは、イギリス領とフランス領の間に挟まれているという、とてつもなく厳しい条件の国です。しかし逆にそのことを利用し、
「うちが滅びたら、イギリスとフランスは直接向き合って戦うことになる。超大国同士が正面から戦うのは避けた方がいいんじゃないの? うちが中立の国家として独立すれば、ふたりの間にクッション国ができることになり、安心な状況になるんじゃないかな~。もちろんうちが独立したなら、商売する上でもいろいろ優遇させてもらいますしね!」
と、断ると逆に損になる取引を巧妙に持ち出し、結果的にASEAN諸国で唯一独立に成功したという背景も持っています。
外交手腕において、日本に比べはるかに優れているタイですが、国内政情の安定性においては比較するべくもありません。
タイでは政治に不満を持つと、本当にクーデターが起こってしまいますし、軍事政権であるタイはしばしば軍と市民が衝突し、死者が出ることすらも珍しくない状態です。
軍事政権であり首相がいながら、それとは別に国王がすべてを超えた政治的手腕と権限を期待されるという特異な政治。
しかし、プミポン国王はその期待に十分に応え、タイを発展させてきたという事実があります。
では、彼がいない今後のタイはどうなってしまうのか?
残念ながら、政情不安定になってしまうことは避けられないでしょう。
けれどもこれまで培ってきたタイの叡智や、そもそも本当に継ぐべきものであるプミポン国王の遺志をタイ国民が活かし、タイを今以上に発展させてくれることを願ってやみません。