19世紀ドイツ最大の謎!16年間、暗闇に幽閉されていた謎の少年。彼は王室貴族だったのか?

謎の少年

image

今から200年近く前となる、1828年5月26日の夕方。

ドイツでは聖霊降誕祭となるこの日のニュルンベルクで、靴屋を営むジョルゲ・アイヒマンは、広場でうずくまる見慣れない少年を見かけました。

少年はおびえた様子で、どこか普通ではなく、汚れた服を着て、その手には手紙を持っていますした。

ジョルゲは気になって声をかけますが、何を質問しても、どう聞いても、『ワカラナイ』、『ワタシハ、父ノヨウナ軍人にナリタイノデス』、『ワカラナイ』という返事しか返ってきません。まるで、その言葉しか教えられていないかのように…。

少年は、世界のなにもかもにおびえているように見えました。

その足は反り返るほどまっすぐに固まっており、ひざの裏は変形してへこみがなく、まるで『人生でほとんどひざを曲げたことがない』かのような状態だったのです。

少年のよたよたとした歩き方を見て、ジョルゲは、なにかただならぬ事情があるのを察します。

少年の唯一の所持品であった2通の手紙も、更に謎を深めるようなものでした。

2通の手紙の内容

Kaspar01

実際に彼が持っていた手紙

1通目の手紙

『フリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ大尉へ

大尉の騎兵隊へ入隊を志望する若者を送ります。

1812年10月7日に、この子の母親が私に養育を求めて、この子を連れてきたのですが、私は自分の子どもを育てるのに精一杯で、育てる余裕がありません。

そのため、私は一度もこの子を家の外に出したことがありません。

もしも手に余るようならば、殺してください。』

2通目の手紙

『この子は洗礼を受けています。名前はカスパー。姓はありません。与えてあげてください。

この子の父親はすでに亡くなっていますが、騎兵でした。この子が17歳になったなら、父親と同じ第六騎兵隊に参加させてください。

この子は1812年4月30日に生まれました。

私は貧乏です。この子の面倒を見ることができません。』

これらの手紙は、どれも異常なほど誤字が多く、誰が書いたのかも分からないものでしたが、1通目はこの子を育てた人間、2通目は母親からなのだろうか?と推測されました。また、とてもバイエルンの国境なまりが強い手紙だったと言われています。

ジョルゲは、手紙に唯一書かれている名前であるヴェッセニヒ大尉のところに連れて行きますが、大尉はまったく心当たりがなく、この子が何者なのか、どこから来たのか、何もわからない状態でした。

大尉が彼に、「好きな食べ物は?」などありふれた質問をしても、『ワカラナイ』『ワタシハ、父ノヨウナ軍人にナリタイノデス』としか答えなかったため、思い立ってペンを持たせると、嬉しそうにして文字を書き始めたのです。

『カスパー』。『ハウザー』。

当面、彼のことはカスパー・ハウザーと呼ばれることになりました。

なにひとつ身元が分からない彼は、孤児として警察の小さな塔に収容されることになったのです。

Kaspar_hauser

発見された当初のカスパー・ハウザー。足は変形し、カカシから取ったと思われるぼろぼろの服を着ていた。

異常に発達した感覚

塔の1階の部屋に収容されたカスパーはたちまち街で話題となり、窓からカスパーをひと目見ようと多くの人間が押し寄せました。

しかし、カスパーは人々にまったく興味を示さず、ただ部屋の中でじっとしているだけで、ろくに身動きすらしようとしません。

あるとき、見物人がおもしろがって馬のおもちゃを投げ込んだところ、カスパーは『馬!!』と異常な興奮を見せ、それ以降は食事をするにも馬といっしょに過ごし、馬に食事を与えたり、まるで生き物と物体の区別すらついていないように見えました。

あとから分かったことですが、カスパーは生き物と物体の違いどころか、窓の外の景色すら認識しておらず、景色ではなく『壁の模様』だと思っていたのです。『部屋』以外になにかがあることをまったく理解していないような状態でした。

そんな彼のところには多くの学者が訪れ、彼の様々な性質についてさまざまな検査が行われました。すると、彼について信じられない事実が判明していったのです。

  • 鏡の中に映るものをつかもうとしたり、ろうそくの火を火傷ができるほど触ったり、普通の生活の経験をしていない。まったく人間らしさがない。
  • 暗闇での感覚が異常に発達している。暗闇で遠くのクモの巣にかかった蚊さえ認識して指差していた。まったく明かりがない暗闇で、正確に色や物の形を判別している。
  • 暗闇の中にいたがる。狭く暗く閉ざされた部屋の中にいたがる。
  • 暗闇での聴覚も異常に発達しており、隣の部屋のわずかなささやき声さえ聞こえている。
  • 嗅覚も異常に発達している。ワインやコーヒーの匂いを強烈に嫌がり、水の中に1滴落としただけでも、それを判別してとてつもない拒否反応を示す。
  • 逆に、光の中ではほとんど何も認識できていない。暗闇で光を向けられると嫌がり、光の中では遠くのものがまったく見えていない。
  • パンと水以外、食べ物をまるで受け付けない。すぐに吐き戻してしまう。

これらの事実から、彼はとてつもなく長い期間…もしかすると、生まれた時から暗闇に幽閉されていたのではないか?と推測されました。

人々はおもしろがり、ある時は見世物のように昼間の街なかに連れだされたこともありましたが、カスパーは光と騒音にとてつもなくもがき苦しみました。

学者たちは毎日カスパーのもとに通い、ひたすらさまざまなことを教えていきました。

しかし、新しいことを学ぶのはカスパーにとって相当な負担だったようで、時にかんしゃくを起こしたり、暗い部屋の中に隠れようとしたりしたことなどが記録に残されています。

この中で、のちに里親となるダウマー教授は、カスパーと過ごす中で親子のような信頼を築いていきました。

失われた時間を取り戻すように、カスパーは人間らしさを体得していきます。

少しずつカスパーが自分のことをしゃべれるようになっていくと、更に衝撃の事実が判明していくのです。

暗闇に包まれた人生

『暗い、暗い、暗い狭い部屋。

起き上がることも出来ない。暗い暗い狭い部屋。

部屋の大きさは奥行き2メートル、幅1メートルほど。本当に、人が寝るだけの小さな部屋。

小さな窓があったが、光はろくに入らず、太陽が見えるようなことはなかった。

部屋の床は汚れており、ベッドのかわりに干し草だけがしかれている。

ここだけが自分のすべての世界。唯一与えられた馬のおもちゃだけが、自分が持つたったひとつのもの。

そこには誰もいない、なにもない。自分は今まで、自分以外の人間に出会ったことがない。

朝起きると、必ずパンと水が部屋の中に現れていた。

誰にも出会ったことのない自分は、パンと水が現れるのは『自然現象』だと信じて疑わなかった。

ときおり、水が苦いことがあり、苦い水を飲むと、必ず深く深く眠りに落ちた。

眠りから覚めると、服が取り替えられ、部屋がきれいになっていた。

そこだけが自分の世界。そこ以外に何もない。

ある日、どこからともなく、謎の『男』が現れた。

『男』は、自分にいくつかの本を与え、すこしの読み書きと、『カスパー・ハウザー』という文字、『ワカラナイ』『ワタシハ父ノヨウナ軍人ニナリタイノデス』という言葉を教えた。

その男にかつがれ、初めて外の世界に出た。強烈な光に気を失った。

目が覚めそうになると、たびたび苦い水を飲まされ、そのたびに眠ってしまう。眠りながら馬に乗って長くを走った。

そして、聖霊降誕祭のあの日、広場にいた…。』

彼のおぼえたばかりのつたない言葉をまとめると、これだけが彼の生涯、これだけが彼の人生のすべてであるということが分かりました。

明らかにどこかに監禁されていただろうという過去。苦い水を飲んで眠りに落ちたのは、おそらくアヘンや睡眠薬であり、監禁した人間が自分たちの姿を見られないよう、注意に注意を重ねていたのが見て取れます。

言葉がしゃべれるようになったことで、更にカスパーには驚異的な能力が発達していることも明らかになりました。

渡り鳥は、地球の磁気を感じ取り、北や南を判別して行動すると言われますが、カスパーもはっきりと磁力を認識し、磁石のマイナスを向けられると「何かが体の中から出て行く」、プラスを向けられると「何かが体に入っていく」と強い反応を示したのです。

気づかれないように磁石を向けても、遠いところに置いても正確に磁石の方向に反応し、これらのことからある仮説が立てられました。

本来、生物にはこれらの超感覚の才能が備わっているが、成長していく中で、いらない能力は捨てられていく、もしくは育っていかないのではないか?

しかし、ずっと暗闇の中で育ったカスパーは、通常の五感がまったく役に立たなかったことから、これらの超感覚的な能力を必要としており、それらの能力が発達していったのではないか?という仮説です。

今でも心理学などで、外界と接せずに発達した子どもたちの症状を、カスパー・ハウザー症候群と呼ぶことがあり、偶然に発見された彼の超感覚は、その後の研究にも大きな影響を与えています。

そしてそれらの説を立証するかのように、外の世界の光のなかで、見ること聞くこと、動くことを学んでいくうちに、通常の五感の能力が発達し、暗闇の超感覚はほとんど失われてしまったという記録が残っています。

カスパーはどこから来たのか

カスパーが外の世界で最も人を驚かせたのが、馬術の才能でした。

馬のおもちゃを与えられていたこと、騎兵隊に入れてくれという謎の手紙、それらの事実と符合するように、カスパーは天才的な馬術の腕を見せました。

ほんの少し教えられただけで馬術を体得し、ごくごく短期間で、乗馬隊の隊長と並ぶほどの腕前になってしまったのです。

のちにカスパーの里親となるダウマー教授は、カスパーは騎馬種族の出身なのではないかと推測します。

どんな技術でも、何世代も繰り返し使われることによって、技術が遺伝するというのはよく知られた事実です。

南の海にいる民族は例外なく泳ぎが上手く、狩猟民族は異常に視覚が発達しています。

このようなことから、彼の中にはなんらかの騎馬に関する血が流れているのではないかと推測しました。

少しずつカスパーが言葉や知性をおぼえる中で、最初は人間らしくなかった彼のふるまいや風貌は変わっていき、次第に気品ある表情をするようになりました。

そして、街の人達が騒ぎ始めたのです。

『カスパーの顔は、驚くほど、王室貴族であるバーデン大公の貴族に似ている』。

王室貴族、バーデン大公国。1812年にバーデン大公国のカール大公の跡継ぎである王子が生まれましたが、生まれてすぐに死に、埋葬したと言われていました。

手紙にある、カスパーが生まれたとされている年が1812年。

そして更に、カスパーの体を調べることで、驚くべき事実が判明しました。

カスパーの体には、種痘(予防接種)を受けた跡があったのです。

当時の予防接種は貴族しか受けることが出来ず、カスパーが貴族なのではないかという噂がたちまち広がりました。

かつての身元引受人であったフォイエルバッハは、調査を行った上で、カスパーは貴族であるという公文書まで作成しましたが、すぐさまバーデン公の人間たちが訴訟をちらつかせたため、これらを取り消さざるを得ませんでした。

カスパーは貴族なのではないか?

死産して埋葬したという子どもは別人で、この子こそが、後継者問題によって闇に隠された王族なのではないか?

カール大公の妻ステファニーが産んだ、第一王子となるべき子ども。

しかし死産することによって、カール大公には跡継ぎがいなくなった。

このまま子どもがいない状態だと、ホッホベルク伯爵夫人の子どもがすべてを継承することになる。

もしも…ホッホベルク伯爵夫人が、どこかから持って来た子どもの死体を、本当の王子とすり替え、王子はどこかに監禁していたら…?

16年も経って外に出せば、まともな生活を送れず、ただの乞食として扱われたり、兵隊として連れて行かれるかもしれない。

なぜ、カスパーは『父ノヨウナ軍人にナリタイノデス』という言葉だけを教えられていた?

もしかして、カスパーは………。

1830

カスパー・ハウザーの肖像画

カスパーの正体を探るために懸賞金がかけられ、当面のカスパーの生活費は国の税金からまかなうことにまでなり、カスパー・ハウザーが貴族なのか孤児なのか、世間では一躍センセーションが巻き起こりました。

そんな騒ぎはよそに、ダウマー教授が里親となって引き取られたカスパーは、その人生の中で間違いなく一番幸せな時間を過ごしていました。

初めて雪を見た時には、「しろい絵の具だ」と言ってはしゃぎ回ったあと、泣きながら戻ってきて、「しろい絵の具が、ぼくの指を痛くした!」と訴えました。

空に浮かぶ星を見ると、「あれがこの世で見たもののなかでいちばんキレイだ!」と感動して喜び、「誰があんなにたくさんのろうそくに火を灯すのだろう?」と不思議がりました。

その後、「どうしてあの謎の『男』は、こんなにきれいなものを、ぼくに見せようとしなかったのだろう」と言って泣き続けたりもしていました。

失った時間を取り戻すかのように、無邪気にダウマー教授との楽しいひとときを過ごしながら、カスパーは急速な勢いで言葉と文化を学習していきます。また、ダウマー教授との充実した日々は、カスパーに人間らしさも与えました。

あるとき、ダウマー教授と美しく見晴らしのいい丘に連れて来てもらったカスパーは、大喜びしてはしゃぎまわったあと、ダウマー教授にこう伝えます。

「ぼくは、あの地下牢から出てこなければよかった。

あの『男』は、どうしてぼくを外に連れてきたのか…。

あそこにいれば、何も感じないでよかった。何も知らなくてよかった。

こんなに遅くなって世の中に出てきたという苦しみを、味わわなくて済んだのに……」

ダウマー教授と過ごした17ヶ月で、多くのことを吸収したカスパーは、周囲の勧めで本を出版することにしました。それは、彼が自分自身の人生を振り返った記録でした。

狭い部屋のこと、自分に唯一与えられた馬のおもちゃのこと、幼くつたない言葉ながら、カスパーは本を書き綴ります。

カスパーが自分の監禁生活を綴った本は、特に売上がいいわけではありませんでしたが、ひっそりと発行されました。

そして、この本の発行直後から、カスパーの運命は大きく狂い始め、カスパーには止めることが出来ないものになっていったのです。

第一の襲撃

その日、ダウマー教授が家に帰ると、服がやぶれ、頭から血を流しているカスパーの姿がありました。

一命を取り留めたカスパーによると、覆面をかぶった男が現れ、突然自分をナイフのようなもので襲ったということでした。

その攻撃は喉元を狙ったようでしたが、カスパーが体をすくめたため、頭を切ることで終わったようです。カスパーは負傷した状態で、このようなうわごとをつぶやいています。

「なぜぼくを殺すんです? ぼくはあなたに何もしたことがない…。ぼくは殺されたくない!ぼくが人生とは何かを知る前に、ぼくを殺すなんて…。なぜか教えてください…」。

その後、怪我が回復したカスパーが警察に証言したところによると、黒いスカーフと黒い帽子で顔を隠した男が、「ニュルンベルクの街を離れる前に、お前は死ななければならない」と言いながら切りつけてきたということでした。

黒づくめの男は、ダウマー教授の家の近くで手を洗っているところが目撃されており、襲撃の数日後、近隣の女性に「カスパーの容体はどうなんだ?」と聞き込みしている姿も目撃証言がありました。その謎の男は、街のゲートに襲撃のニュースが貼り出されるのを見ると、いずこかに消えていったと町の人間は語っています。

警察から、カスパーには24時間の警護がつけられることになります。

そんな中、カスパーに新たな『身元引受人』が名乗りを上げることになりました。

あの王侯貴族・バーデン大公の相続人の友人という、スタンホープ卿。

カスパーは最初スタンホープ卿のことを気に入り、ともに生活をするものの、スタンホープ卿は突然態度を急変させます。更に世間に対し、カスパーは世間で言われているような純粋な人間ではなく、傲慢であるとも言いふらします。

また、スタンホープ卿は公然と世間にカスパーはペテン師だとののしり、カスパーはハンガリー出身で、王族の出身などではない、切りつけられたことも自作自演であると言い出し始めました。

街の人々も、カスパーが現れてから17ヶ月たち、最初は好奇心からカスパーブームがきていたものの、月日がたつにつれ、まるで進展のない話に飽きてきていたところ…。

彼が実はペテン師だったのではないかという新しいニュースに、またおもしろがって耳を傾けるものも現れ始めました。

しかし、カスパーの里親であったダウマー教授や、最初の身元引受人であったフォイエルバッハは強く反発します。

貴族だけが受けられる予防接種の跡を持ちながら、暗闇に戻りたいと願い、足が変形するほど監禁されていたカスパーが、名誉欲のために計算して演技をしたペテン師だとは到底信じられなかったのです。

特にフォイエルバッハは真っ向から反論し、「彼は、貴族たちの憎むべき後継者問題による犯罪の被害者だ!」と訴えました。

カスパーはそのまま、スタンホープ卿の言いなりにスタンホープ卿の家から追い出され、スタンホープ卿の友人であるメイヤー博士と、カスパーの護衛を務めることになるヒッケルのところに預けられることになったのです。

ここでの生活は、カスパーにとってとても苦しく辛いものだったらしく、「ダウマー教授のところに戻りたい」と、何度も涙を流すカスパーの様子が記録に残されています。

それから2年たち、誰もがカスパーの存在を忘れ始めても、元身元引受人であったフォイエルバッハは諦めていませんでした。

カスパーが貴族であるという公的調書さえも作っていたフォイエルバッハは、バーデン大公に訴訟をちらつかせられたことによって、一時はそれを諦めたものの、カスパーが貴族であるという確固たる自信は失っていなかったのです。

1832年、フォイエルバッハは、スタンホープ卿に『カスパーは貴族である』という報告書を送りました。

そして、すぐにそれを出版したのです。

これによってヨーロッパ全土には大きな波紋が広がりました。

その翌年である1833年。

まるで本の出版が何かを呼び覚ましたように、カスパーに2度目の襲撃が訪れ、フォイエルバッハも突然の死を迎え、カスパーの理解者であったニュルンベルク市長も亡くなっています。

1度目の襲撃をからくも逃れたカスパーでしたが、この襲撃がついに最後となりました。犯人は200年近くたった今も不明です。

第二の襲撃、カスパーの死

1833年12月14日。

メイヤー博士の家のリビングルームで、カスパーは大量の血を流して倒れていました。

駆けつけた護衛のヒッケルが確認すると、カスパーは胸に深い深い刃物による刺し傷を受けており、肺と肝臓をつらぬくほどの重症でした。

カスパーは途切れゆく意識の中で、犯人についてつぶやきます。

「男が…刺した…ナイフ…。宮廷庭園で…財布を……。すぐに行って…」

カスパーのわずかなつぶやきをまとめると、その日、カスパーは謎の男から「お前の母親について、聞かせたい話がある」と宮廷庭園に誘われており、カスパーが宮廷庭園に行くと、謎の黒ずくめの男から「カスパー・ハウザーか?」と尋ねられたそうです。

カスパーがうなずくと、男は財布を渡し、カスパーが受け取ったと同時に、胸を刃物で深く刺してきた……ということでした。

実際にヒッケルが宮廷庭園に行くと、財布に鏡文字でメッセージが書かれており、そこにはこのようなことが記されていました。

 kasparmirror

実際の鏡文字メッセージ

『カスパー・ハウザーは死ななければならない。カスパー・ハウザーは、私がどんな顔で、どこから来たか、そして誰なのかを知っているはずだ。だから私もカスパー・ハウザーを知っている。私はバイエルン国境の、川の側から来た。名前は、M・L・Oとだけ言っておく。』

カスパーが最初に持っていた手紙も、非常にバイエルン国境なまりの強いものでした。

この時、ヒッケルは奇妙な事実に気づきます。当日は雪が降り積もっていましたが、その場所にはひとつの足あとしか残されていなかったのです。

このことからヒッケルは、これはカスパーの自作自演なのではないかと推測しました。死の淵をさまようカスパーを、ヒッケルやメイヤーたちは責め立てます。

「なにもかも、お前の作り話だったんだ。暗闇から出てきたのに、馬術が異常に上手いことも。騎馬の一族の血が流れているとか、どんな推測も違う。

貴族とは何の関係もない。お前は、ペテン師だ。第一の襲撃は、お前の本が発行された直後だった。監禁をつづった本の内容のせいで、監禁者たちに襲撃されたとでもいうのか?

違う。あの本は売れなかった。お前は本を売るため、話題作りのために自らを襲ったのだ。そして今、お前のことを世間は忘れようとしている。だから、また自分のことを刺した。注目されるための演技だ。それが、思い余って深く刺しすぎてしまったんだ。そして死にかけている。そういうことだろう?お前は、ペテン師なんだ」

死にかけているカスパーは、必死で「違う、違う」と否定し続けます。

そして死の淵を苦しみさまようこと3日間、力尽きるようにこうつぶやきます。

「ぼくは、もう疲れました……。ぼくがやったことじゃない…………」

それがカスパーの最後の言葉になりました。

なぜか、カスパーの死について、事件はほとんど調査されることがありませんでした。

検死を行ったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハイデンライヒは、傷のあまりの深さに、これを自分で行うことは不可能だろうと結論づけました。

ここから大きく謎が残るのがスタンホープ卿の行動です。

スタンホープ卿は遠くミュンヘンからカスパーへの手紙を送っていますが、手紙に書かれている日付はカスパーの死の翌々日である16日。しかし、切手の消印はなんと25日だったのです。

ミュンヘンでは20日からカスパーに関する報道がなされたため、あたかも『カスパー襲撃など知らずに手紙を出してしまった』と言わんばかりですが、消印は25日であることから、大きな疑惑が生まれています。これは、自分がカスパーの死に関与していないと強調したいがためのアリバイ工作ではないかとも疑われています。

また、スタンホープ卿はこの消印の日から迅速に行動し、26日にはバイエルン大臣を訪問、そこからダウマー教授を含め、ニュルンベルクでカスパーに関わったほぼすべての人と会い、カスパー・ハウザーはペテン師であり、自殺したと説明して回ったのです。

その上でヨーロッパ全体の公人の訪問を行い、ここでも『自殺したペテン師である』という演説をしつこく行っています。なぜ執拗にこのような行動を取ったのか、その理由は一切不明です。

更にスタンホープ卿は、カスパーを預かった前後やカスパーの死に際して、バーデン大公とステファニー妃を訪ねています。スタンホープ卿の報告に、ステファニー妃は涙を流したという記録も残っています。

国王は犯人逮捕のために懸賞金をかけましたが、なにも犯人に関する情報は集まりませんでした。

肝心の襲撃の時に護衛をしなかった護衛ヒッケル、調査されない殺人事件、カスパーの味方でありたびたび弁護してくれた元身元引受人のフォイエルバッハも、突然の死…。

謎の死の連鎖で、本人も代弁者もいなくなったことにより、カスパーの存在は静かに闇へと姿を消しました。

カスパーが暗闇から現れて、たったの5年。たったの5年で、またカスパーの姿は深い深い闇の中へと閉じ込められることになったのです。

後世の研究

ピルザッハ城の謎の痕跡

カスパーが現れたニュルンベルクの近くにある、ピルザッハ城という小さな水城。

カスパーの死から100年ほども経った1924年、この城に秘密の部屋があることが偶然発見されました。

普通に過ごしていれば絶対に分からないと思われるこの秘密の部屋は、座ることがぎりぎりの高さしかなく、奥行き2メートル、幅1メートルと、カスパーが話した『自分が閉じ込められていた暗い部屋』と完全に一致したのです。

また、そこから60年近く経過した1982年に行われた改装工事で、瓦礫の下から『おもちゃの馬』と『カビの生えた衣服』も見つかっています。

おもちゃの馬は、カスパーが話していた『ぼくの唯一のおもちゃの馬』と、形や特徴が完全に一致していたということです。

謎の私文書焼却

ピルザッハ城にカスパーを監禁していたと疑われているのは、ホッホベルク伯爵夫人の部下であるヘンネンフォーファー少佐でした。

ヘンネンフォーファー少佐は、退役した軍人にカスパーを預けたとも言われており、ホッホベルク伯爵夫人とこの周辺に、なにか非常に怪しい気配が感じられると言われています。

しかし、ヘンネンフォーファー少佐が死んだ際、なぜかすべての私文書が焼却されてしまったために、ホッホベルク伯爵夫人とヘンネンフォーファー少佐の間に何があったのか、このすべても闇に閉ざされてしまいました。

宮廷庭園で見つかった凶器

カスパー殺害から2年が経過したころ、宮廷庭園で、刃渡り14cmのダマスカス刃の短剣が見つかりました。

刃身が波形になっている極めて特殊な短剣で、この短剣の刺し傷の痕跡と深さは、カスパーの刺し傷と完全に一致したのです。

この短剣は、カスパーの死から100年ほど経った1926年、カスパーが発見されたニュルンベルクの警察展示会に出品展示されたり、カスパーの殺害現場となったアンスバッハの博物館に保管されていましたが、第2次世界大戦終結時の混乱により行方不明になりました。

謎のボトルメッセージ

カスパーが聖霊降臨祭に現れる12年前、カスパーが6歳ころと思われる1816年9月。ライン川の上流で不可思議なボトルメッセージが見つかりました。

そこには、「…私は、ラウフェンブルクの近くのある地下牢に囚われている。…この地下牢は、地面の下にあり、私の王位を奪ったものにも知られていない…」などと書かれており、王位に関する何者かが、どこかに囚われていることを示すメッセージでした。

カスパーを監禁していた者の一味が、良心の呵責に耐えかねて流したものではないかと推測する声もありますが、最も疑惑がかかっているバーデン大公は王位に当たらないため、詳細は一切不明です。

バーデン大公とのDNA鑑定

カスパーと似ていると噂され、疑惑のただ中にあるバーデン大公ですが、1996年、カスパーであるとされる髪の毛と血痕を用いて、DNA鑑定が行われました。

結果は『繋がりなし』であり、カスパーとバーデン大公には何の関連もないように思われましたが、なんと2002年になって、カスパーとされていたDNAは、カスパーの服から採取されていない、怪しいものだったことが分かりました。

改めてフォイエルバッハのコレクションからカスパーの髪の毛のDNAを採取すると、バーデン大公カールの妻、ステファニーの子孫とDNAが95%一致したということです。

まだ依然として3つのズレがあるため、この結果によって、死産し埋葬されたと言われるバーデン大公の子どもが、カスパーであると断言できるわけではありません。

『死産したと言われる子どもは生きていたが、貴族の権力争いによって、別の子どもの死体とすり替えられ、子どもは暗闇に監禁され続けたのではないか?それが、『カスパー・ハウザー』ではないか?……』

それが、カスパーの味方をしていたフォイエルバッハの主張でした。

埋葬されている子どもの遺骨をDNA鑑定すれば、本当にバーデン大公の子どもであるかどうかを判別することが出来、こちらが本物の子どもでなければ、いよいよカスパーの王族説は真実味を増すでしょう。

しかし、バーデン家は現在まで、子どもが埋葬されている教会への立ち入り調査を一切拒否しています。

また、出産や乳母などの記録が残されている、バーデン一族の記録文書収蔵庫への立ち入りも完全に拒否しているため、すべては闇の中です。

こうして、暗闇から突然、歴史上に姿を現し、たった5年という短い光を浴びたカスパー・ハウザーは、また暗闇へと戻って行きました。カスパーが閉じ込められている闇は暗く深く、二度と晴れることはないのではないかと言われています。

殺害現場となったアンスバッハでは、カスパーのための祭礼が2年ごとに行なわれ、人々は消えたカスパーのことを悼まれているということです。

追記・海外の最新研究

以上がよく知られているカスパー・ハウザーの伝説をまとめたものですが、より見識の広い記事にするための観点から、海外の研究による疑問も追記しておきます。

なぜ『くる病』に冒されていない?

カスパー・ハウザーが本当に暗闇の中で生活したのであるならば、当然、現代医学の観点から、くる病などの重大な病に冒されているはずである。暗闇で生活した証拠と言われる超感覚については説明がつかないが、なぜくる病などに冒されていないのか疑問が残る。

パンと水だけで健康を保てるのか

カスパーの供述がすべて正しいとすれば、彼はパンと水だけで16年生存していたわけであるが、この食事で16年も肉体に異常がないとは信じがたい。なぜこれほど偏った生活で健康でいられるのかが謎である。

あまりにも学習の速度が早過ぎる

カスパーの時代は、『暗闇で監禁されて育った人間』に対する情報も知識も、あまりにも少なすぎた。しかし現代では、悲しいことに『虐待された子ども』の中に、カスパーに極めて近い環境で育った子どもたちがいる。

確かにカスパーと同様、足が変形していたり、歩けなかったりで、カスパーの『靴を履いたことがないので、靴を履いて歩いただけで足が血まみれになった』という記録と符合しているように思える。

しかし、カスパーと同じような環境で虐待を受けた子どもたちは、ほとんど例外なく知能の発達に著しい障害を受けていた。

当時から、カスパーの学習能力の早さは、『忘れていたものを思い出したかのようだ』と言われていたが、実際に16年間監禁されていたとすると、あまりにも彼は『賢すぎる』。

馬術の上手さなどは当時からペテン師であると言われていたが、16年間の監禁の後に、ここまで才能を発揮できるものなのだろうか?

最後の殺人はカスパーを知る者?

最後に起こった殺人は、傷口の深さなどからも自作自演ではなく恐らく事実であり、カスパーは何者かによって殺されてしまったのだろう。しかし、カスパーは刺されてから医師を呼ぶのを拒否するなど、不審な点もある。この殺人に関して、今となっては真相がどこにあるのかまったく分からない。

また、予防接種の痕跡や、通常の生活では得られない超感覚、ピルザッハ城に実際に存在した秘密の部屋や馬のおもちゃの存在など、カスパーのすべてをペテンだと言うには、説明することの出来ない謎も数多い。

しかし、カスパーの供述だけでは証明することの出来ない疑問も数多くあり、やはり、真相は『分からない』のだ。

彼が『失われた王族』なのか、『稀代のペテン師』なのか、それともまったく違う別の存在なのか、それすらもやはり『分からない』のである。

スポンサーリンク

最後まで読んでいただきありがとうございます。記事が面白かったらシェアしていただけると嬉しいです。

フォローする

スポンサーリンク