数々の哲学者たちが何百年という年月をかけて挑んできた、人間の思考の究極に迫るパラドックス。
今回はその稀代のパラドックスに、大阪人である管理人が大阪の精神で挑戦してみました!
「こんなことまで!?」というところまで細かく議論する哲学者と、「それくらいは考えておけよ!」というくらい何も考えていない大阪人の対決、一体どうなってしまうのか!?
テセウスの船
誰も戻ってこれなかったクレタ島から生還したテセウス。
アテネの人々は、テセウスの船を奇跡の証として大切に保管していました。
しかし、年月が経てば経つほど、船は腐っていき、あちこちのパーツを新しい木材に交換しなければならない羽目になります。
ついにはすべてのパーツを新しい木材に取り替えることになり、もともとの船のパーツはどこにもなくなってしまいました。
さて、これでもこの船は本当に『テセウスの船』なのでしょうか?
それとも、『ただの新しい船』なのでしょうか?
そして、腐ってボロボロになったもともとの木材パーツを集めて組み上げると、これはこれでひとつの船のようなものになりました。
形は違っても、こちらが『テセウスの船』なのでしょうか?
一体、『テセウスの船』はどこに行ったのでしょうか?
アリストテレス哲学の回答
このようなパラドックスに解答するためには、船が船であるべき理由をどこに求めるのか?という4つの原因を考える必要がある。
船は船として同じ設計を保っている(形相因)。
物質としては違うものにすり替わっている(質料因の同一性がない)。
船を使用する目的は変わらない(目的因)。
作られた経緯(作用因)は変わらない。
よって、アリストテレス哲学的に、新しい木材に変えたとしても、本質的に変わらぬこの船は『テセウスの船』だと理論付けられる。
ロバート・M・パーシグの解答
『パーツ』という下位レベルのものを集めて作った高位レベルの概念が『船』である。
下位レベルのものを入れ替えても高位レベルの概念は入れ替わらず、船は新品になったとしても『テセウスの船』である。
ジョン・サールの解答
船という根本的な機能が保たれていれば、それはパーツがどうなっても変わらず同じ船である。
また、腐ったパーツを使って作った船が『テセウスの船』であるかどうかは、『船の形』を重視するなら新しいものが『テセウスの船』になり、『船の材料』を重視するなら、もとの腐ったパーツのものが『テセウスの船』になる。
そこは受け取り方次第である。
大阪人の解答
ややこしいので、どちらも『テセウスの船』とする。
一番重要なのは、それを大阪名物として大阪に飾らせてくれるのかということ。
飾らせてくれるのであれば、まずは新品のほうを『新生!テセウスの船!』としてテセウス博覧会(入場料500円)の目玉とし、古い方を『元祖!テセウスの船』として博覧会のおまけとする。
他にも、『テセウスの船まんじゅう』や、『木製テセウスの船キット』などを作ったりする必要もあるし、スマホアプリにも『大激闘!テセウス船記』を配信する必要がある。
できることならば、テセウスというキャラクターはインパクトが薄いので、テセウスが大阪出身だったというエピソードを作ってもらえるとありがたい。
もしそれができないなら、テセウスは今の子に受けないので、テセウスそのものの存在をなくし、キティちゃんやピカチュウ、ジバニャンのライセンスを取って、それを船に乗せる。
そうしたキャラクターでストラップやキーホルダーを作り、これも博覧会の物販コーナーでの目玉とする。
いろいろ考えることがたくさんあって忙しいんだから、しょうもないことで悩まないように!!
全能の存在は、自分が持ちあげられない石を作れるか?
もしも、この世にありとあらゆることが可能になる、『全能』の存在がいたとします。
では、その『全能』の存在は、自分自身が持ち上げることのできない石を作り出すことができるのでしょうか?
そんな石が作れてしまえば、その瞬間に『不可能』が生まれてしまい、『全能』の存在は『全能』ではなくなってしまいます。
そんな石は作れない、ということであれば、『全能』ではない『不可能』が生まれてしまいます。
さて、『全能』なる存在が、この石を作ることは可能なのか不可能なのか?
哲学者たちの解答
『全能』の定義がいかなるものなのかについて考える必要がある。
『全能』であるということが、論理的にできることのすべてが可能ということであれば、別に理不尽なことを可能にする必要はない。
論理的に可能なことをすべて行えれば、それは『全能』であるということである。
また、もしも人間の理屈を超えた完全さが全能であると定義したならば、そんな存在には論理が成立しない。
『四角い丸』という不可能な物質も作れるだろうし、自分が持ちあげられない石を作った後、更にそれを持ち上げるという矛盾も朝飯前であるはず。この場合はそもそもの論理が破綻する。
近代物理学の解答
このパラドックスは1100年代から議論されてきたものであるだけに、科学としては古すぎる。
当時の科学では、地面は動かず平らであり、その周囲を太陽が周っていると考えられていた。
この状態での『持ち上げる』は下から上にあげるだけだが、地球自体が動きつづけていると判明した現代では、それだけで持ち上げたといえるのかどうかが疑問。
どこからどこまで持ち上げるのか? 地球が高速で回転移動していることも考えれば、なにもしなくても持ち上がったり下がったりしていると考えることもできる。
そもそもの前提となる説自体が科学的にあまりにも貧弱である。
大阪人の解答
ややこしいこと言うてないではよご飯食べなさい!!
あんた1,000年前からそんなこと言うてんの!!
そんなん女の子に嫌われるで!!
はよご飯食べなさい!
重たい石持ち上げたら全能じゃなくなるって?
そんならクレーン車で持ち上げたらええやん!!
クレーン車を用意できるという全能を発揮したらええやろ!
とりあえず全能の力でそこのソース取って!!
ゼノンのパラドックス
ここに、とてつもない速さで放たれた矢があります。
その矢を、カメラで連続撮影します。
すると、どの瞬間も、例外なく矢は止まっているはずです。
この世に存在するすべてのものは、『瞬間』を切り取れば、必ずそれは『止まっている』ものなのです。
つまり、『動いている矢』は『止まっている矢』なのです。
止まっている瞬間をどれだけ重ねた時から、その矢は動いていることになるのでしょうか?
アリストテレスの解答
時間をこのように分割することは適切ではない。
一瞬の時間においては、運動することも静止することもまた存在しないのだ。
物理学の解答
静止している最小の一瞬にも、ほんのわずかながら時間が存在し、その中で矢は移動している存在である。
哲学的なテーマとしてこのパラドックスは成立するが、物理学的には成立しないパラドックスである。
大阪人の解答
あんたぁ~!!
あんたが放ったんかこの矢はぁ~!!
紀元前400年ごろに矢ぁ放っておきながら、誰もなにもしようとせんと、あーだこーだ屁理屈言うだけやから、うちにその矢が刺さったがな!!
2500年かけてギリシャから大阪のうちに矢ぁ刺さったでぇ~!!
これどうしてくれるん!?
自分の矢は自分で拾い!! やりっぱなしにしな!! ちゃんとかたづけ!!
現象判断のパラドックス
赤いとか、痛いとか、それ自体の感覚(クオリア)は物質的にこの世に存在しないものです。
ではなぜその存在しないものを、我々は語ることができているのでしょうか?
哲学者の解答
この問題はあまりにも難しすぎ、いまだこれが『一般的解答』という解答に至っていない。
このジレンマは永遠に解けないという学者も存在する。
物理主義の哲学者の解答
脳と心を分割すると(機能的意識と現象的意識)パラドックスが生ずるが、脳と心がひとつであると仮定した場合、この矛盾は存在しない。
大阪人の解答
なにこれ熱湯風呂やん!!
うっわ、なんでこんなとこに熱湯風呂あるん~?
ほんま、今押すなよ!?
押すなよ!?
ぜったい押すなよ!
押したらえらいことに、な、な、…
バッシャーーーーーン!!
あっつぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!
でも熱いというクオリアは存在しない!!
熱くない!! 熱い!!
クオリアは存在しない!!
存在しないクオリアが熱い!! クオリアが熱い!!
熱いわこれ!!!
なにがクオリアやねん!!