今回から突然始まったコーナー、ブックレビュー。
このコーナーでは、ぼくが読んで超絶に面白かった本や、考えさせられる本、みなさんにぜひ手にとっていただきたい一冊を紹介していきます。
第1回は、SFの元祖にして金字塔と呼ばれている、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』です。
『火星年代記』が生まれた時代
レイ・ブラッドベリが火星年代記を書いたのは、1950年。
これだけ聞くと、「超古い」というぼんやりした感想しか湧いてきませんが、第二次世界大戦が終わったのが1945年と聞くと、その古さが分かっていただけることと思います。
中華人民共和国が誕生したのが、ちょうどこの1950年。
そう考えると、「そんな激動の時代に火星移民なんて話考えとったの!?」と、普通のおうちの奥さんになら、「火星、火星いうとらんと働けよ!」とご飯を抜きにされてもおかしくないでしょう。
しかし1950年代は時代背景的に、戦争が終わった冬の時代でありながら、また、新しい時代の訪れに希望を抱く時代でもあったわけです。
日本では手塚治虫が、「戦争が終わった」と喜びながら、決して裕福とは言えない生活の中で、「想像力だけは宇宙にも羽ばたくことが出来た」と言っています。
作家たちにとって、表現の自由が許されない厳しい戦争の時代が続き、その抑制から解き放たれた、新生の時代だと言えるでしょう。それだけに、さまざまな小説や文化のルーツとなった作品が多い時代でもあります。
火星年代記はそんな時代に作られた、SFの元祖と言えるような作品でありながら、美しい完成形を見せている作品です。
『火星年代記』のストーリー
火星年代記は特定の決まった主人公が存在せず、26の短編小説が時代順に並べられ、読み進めていくと火星の年代記が完成するという構成になっています。
このような構成だからこそ、多くの人間の視点、立場から歴史を眺め、火星の始まりと終わりまでを体験することができる、考えぬかれた濃密な短篇集です。
それぞれの短編も意表を突かれる形で終わり、短編としての作りの良さを楽しめます。
なんといっても、文章が詩人のように美しく、歌うように書かれているのも魅力的なところです。
ぼくはこの小説以上に、美しいと思える語り口の小説を知りません。
多くの人間の視点で火星の歴史を味わう中で、この美しくも詩的な語り口が、叙情的な感情をより辛辣にさせます。
なにもかも計算して書かれているのだと思いますが、1950年にこれだけのものを書き上げるのは相当の才能だと言わざるを得ない作品です。
海外にはファンが多く、現代向けに改訂して後世に残そうという試みもあり、長く深く愛されている作品であることがわかるでしょう。
日本においても、ショートショートの天才として知られる星新一は、製薬会社の社長を退職後、病床にて『火星年代記』を読んだことから、SF作家を志したと語っています。
世界的に影響を与え続けている『火星年代記』ですが、この本が単なる侵略物などではなく、火星への移民の中で語られる人間の悲哀なる歴史の縮図こそが、『火星年代記』を永遠の傑作にさせていると感じます。
火星年代記を今読むとどうなる?
べた褒めしたきた『火星年代記』ですが、さすがに科学が進んでいない時代の作品であるため、現代にして読むと、「おいおい、こんなに簡単に火星に移民しよったぜ」と、あちこちの科学的考証のおかしさににわかには納得できなかったり、現代小説の異様に凝った作りに慣れきっていると、「この話はあっさり終わったが、まだ先があるな」と思っていたら、本当にそのままあっさり終わるなどという現象が起きます。
これらは古典作品を読むと必ず起きる現象で、シャーロック・ホームズはあれほど世界的に人気な作品でありながら、現代にして読んでいると、名探偵コナンくんでももっと複雑な事件が起きてるぜ!と言いたくなる気持ちに似ています。
古典作品をベースにして、数多くのきらめく才能を持つ作家たちが、長い年月をかけ磨いてきた作品群、古典よりも練りこまれていて当然ですし、練りこまれることのない文化であるならば、もう廃れているはずなのです。
このことから、当然現代作品と同じジェットコースターのような勢いを味わうことは出来ないでしょう。
しかし古典作品を読んでいると、ジェットコースターが生まれる理由となった、原始のきらめきを感じることが出来ます。
このきらめきは時に、ジェットコースターに乗っていると感じることが出来ないものもあり、そんな体験をしたいがために、古典作品を手に取る人が居続けるのだとも言えるでしょう。
『火星年代記』は、そんな古典の美しさを、あますところなく後世に伝えている傑作だと言えます。
夜のお供に、半世紀以上受け継がれている本書の魅力に触れてみては如何でしょうか?