天才軍師と愛される諸葛亮、なぜ中国を統一できなかったのか?後編

天才軍師と愛され続ける諸葛亮が、なぜ中国を統一できなかったのか?

前編では天下三分の計について紹介いたしました。後編では、勝てるはずのない戦いを繰り返した理由について解説いたします。

そもそも天下統一の見込みがあったのか

天下三分の計で三国を作り出した諸葛亮。

この状態で、そもそも天下を統一できる見込みがあったのでしょうか?

関羽が生きていた頃は、劉備がいる本拠地、関羽がいる荊州、呉の三点同時攻撃で魏を攻めるつもりでした。

実際に関羽の猛攻には強烈であり、曹操も、「ああいう暴れん坊が近くにいるってめっちゃしんどくない!?引っ越ししよかな!?」と都を移すことすら考えています。

しかし、劉備・関羽・張飛は、長い間、国を持たずにふらふらしていた男たち。

長期的な戦略や政治の知略といったものがまったく足りません。

魏の攻撃中に食料が足りなくなった関羽は、「ちょっともらっとこ」と呉の食料庫を襲撃し、食料を奪って攻撃を続けます。

これなどは愚かとしか言いようがない行動なのですが、実際に呉の怒りを買い、「前々から蜀はむかつくと思っていたけど、ほんとに嫌いなんですけど!!」と呂蒙による奇襲が行われ、孤立した関羽はあえなく戦死します。

しかも、関羽が占拠していた荊州も、「もともとおれらのじゃん!」と呉に返すことになりました。

たったひとつの土地と思われるかも知れませんが、荊州は日本の7倍の面積。

どこに行くにも交通の都合がいい場所であり、劉備が持っている蜀の地よりも、ずっとずっと都会でした。

ちなみに蜀である益州は、現在の四川省に当たりますが、ここは常に空が暗く、けわしい山ばかりで何もなく、晴れ間が見えると犬がびっくりして吠えると言われる超田舎です。

曇りが多いために寒く、「寒すぎるから辛いもん食べてあったまろ!」という理由で四川料理は辛くなったというエピソードもあります。

劉備が益州と荊州を持っていた頃の作戦は、『田舎の山奥に本拠地持って閉じこもりながら、交通に便利な荊州に関羽を置いて攻め込んでいく!』といういい感じの状態でしたが、関羽と荊州を失うと、『ただ、田舎の山奥にいる!』というただのヤマンバのような状態になってしまいます。

田舎ですので人も少なく、軍隊も大きなものにはできません。

しかも劉備は、関羽を殺された怒りからむちゃくちゃに呉に突撃し、張飛ともども死亡するという結末。

君主も死に、重要な土地も失い、この時点で完全に天下統一は不可能なはずでしたが、それでも諸葛亮は国家の全財産をかけて5度も大規模侵攻を行います。

それは、なぜだったのでしょうか?

戦いというものの複数のかたち

諸葛亮が全国力をかけて戦った理由は、魏を倒すというひとつの理由だけではありません。

実は、戦い以上に複数の理由がありました。

守れば、必ず、死ぬ

劉備の蜀は超田舎であり、人もとても少ない状態です。

対して曹操が治める中原は、とんでもない都会で、人も多く、人材も輝いています。

中国では、古来より中原を治める者が世界を制すると言われるほど恵まれた土地です。

実際に三国志の人口を見てみると、蜀では10年間に数万人ほど赤ちゃんが生まれて、人口が増えていました。

対する魏では、10年間になんと100万人以上も人口が増えています。圧倒的な国力差があります。

劉備が集めた諸葛亮や趙雲、その他文官や武将たちは、劉備のふらふらする人生で中国全土から集めてきたものです。

もしも蜀で閉じこもって過ごしていたら?

どんどん増えていく魏の人口、当然その中には、未来の『英雄』になるような才能を持った者たちも現れ始めます。

蜀のような小さな田舎では、そもそも人がいないためにろくにすごい人材も現れず、10年後20年後には圧倒的な差がつき、優れた人材と大きな軍隊を持つ魏と、おばかが犬と猿を連れて戦う蜀という未来が現実に訪れるのです。

なんとしても国を大きくし、なんとしても有能な人材を確保しなければ、滅亡することは目に見えていたのです。

実際に諸葛亮の死後、蜀にはろくな人材がいなくなり、政治は腐り、あっという間に滅亡しています。

そもそも、三国志と言っても、魏と呉と蜀はまったく対等ではなく、魏の一人勝ち、国力において80倍ともいえるほどの差があります。

日本で言うと、東京・大阪連合軍と、奄美大島(あまみおおしま)の一騎打ちといった感じです。

東京・大阪が、エイベックスだ、AKBだ、吉本芸人だと巨大戦力を打ち込んでくる中で、奄美大島の売りはビッグダディ。

しかし、数年後には確実にビッグダディブームが去ることを考えると、なんとしても奄美大島に閉じこもらず、できれば大阪あたりは占拠して自分の土地にしたい。せめて吉本芸人くらいは仲間に引き入れたいものです。

こうして諸葛亮が行ったのが、『長安侵攻』でした。大都会である長安を攻め落とすのが目的です。

守っていれば死ぬだけ、先が見える人間ほどそれを理解していましたが、劉備の息子である劉禅は、「平和を楽しもうや!戦争反対!」というかなりのおばかだったことも、諸葛亮の不幸だったと言えるでしょう。

勝たなくてもよい、国家維持のための戦争

そもそも、圧倒的に国力が違い、勝てる見込みの薄い戦争であり、しかも諸葛亮の相手は司馬懿。

司馬懿も歴史に名を残す天才であり、それが蜀の何倍もの軍隊を所有しています。

実際に魏は、蜀・呉連合軍に全力で二箇所同時に攻めこまれても、それ以上の数の軍隊を二箇所同時に配備しているのです。恐ろしいほどの国力差です。

その上、最初の天下三分の計で、「蜀に閉じこもって天下を狙いましょう!」と提案したものの、関羽が死んだことで攻撃手段を失い、本当にただ閉じこもるだけになってしまった諸葛亮たち。

蜀はとんでもない田舎の山奥で、切り立った崖に取り付けたわずかな足場を歩いて進むことになります。蜀の桟道と言われ、三国志当時の西暦200年ごろには、天にのぼるよりも難しい道だと言われていました。ぜひリンクをクリックしてその険しさを見てみて下さい。

そんな蜀から出て、魏に攻めこむだけで、歩いて1,2ヶ月はかかるのです。

この間の食料もすべて用意しなければなりませんが、数万人、数十万人が1ヶ月食べる量を確保するだけでもとてつもない仕事です。国家を挙げて取り組むことになります。

勝てばベストですが、勝たなくてもよかった背景もありました。

蜀は地方政権の新規参入国家であり、誰にとっても蜀よりも、大国・魏のほうがいいということは分かりきっています。

そのために蜀は正統王朝だの、昔の皇帝と苗字が一緒だの、曹操は王朝の敵だのと言ってきましたが、ここにも国家を維持するための理由があります。

人は、共通の敵を前にした時、強く結束するのです。

蜀というとてつもなく弱く、まとまらない国を維持し続けるために、『大きな正義を抱えた戦争』は、絶対に必要なことだったのです。

当然、戦争を続ける中で、「成功するか滅びるかで突撃やってみましょうや!」と本当に一か八かの捨て身の攻撃に出たがるものも現れます。魏延がその筆頭でした。

しかし、政治的な意味のある戦争だったので、諸葛亮は必ず敗北しても痛手のない方法を選び、慎重すぎるほど慎重に戦争を行っています。

これを政治で戦争をする方法、シビリアン・コントロールと言い、諸葛亮が決して闇雲に戦争を戦いの道具だと考えていないことが分かります。

とてつもなく複雑な蜀という国

弱くまとまらない蜀という言葉が出ましたが、蜀という国は本当に複雑な国家でした。

もともと劉備がクーデターを起こして手に入れた国です。

ですから、蜀の中には、

●劉備と昔から連れ添ってきた古参メンバー(ポッと出の諸葛亮は生意気ワロタチーム含む)

と、

●劉備に乗っ取られた蜀の家臣チーム(乗っ取りしといて正統王朝とかワロタチーム)

が存在していたのです。

この、ダブルワロタチームを取りしきっていた諸葛亮は、皇帝ではありません。あくまでも彼らと同じ立場の人間です。

古参チームからの、『俺たちは昔から劉備といたのに、なんでいきなり来たあいつだけ偉そうに出世してんの?』という妬みを受けて、仲良くやっていくだけでも大変なことですが、ここに乗っ取られた側の被害者まで加わっています。

実際に記録にも残っていますが、ことあるごとに彼らは嫌味を言い、「なんだかんだ言ってるけどお前たちは盗っ人、山賊同然、クソワロタ」というようなことを遠回しに言っては、劉備軍に根強い恨みを持っていることが見て取れます。

これを皇帝という立場で黙らせられればいいのですが、諸葛亮は皇帝ではなく、彼らと同じ同僚です。たまたま劉備に愛されて出世はしていますが、もともと彼らと同じ立場なのです。

嫉妬、怒り、恨み、すべてを一身に受けることになります。

その上で同じ立場で国を取り仕切ること、軍隊をまとめること、これはとてつもないほどの知性と人格がなければ不可能です。これこそが、諸葛亮が後世まで愛されている理由です。

乗っ取った国の人間なんて全員追放してしまえばいいと思われるかもしれませんが、そんなことをしてしまうと、もう国民も優秀な人材も誰もついてきません。

また、人が少ない劉備軍において、乗っ取った国の人間でも、貴重な人材でした。

すべてを受け入れ、器が広い正統王朝であることを知らしめる必要があったのです。

諸葛亮が実際に行った政治

このような困難な状況で、諸葛亮が行ったのは、曇りのないまじめな政治でした。

一切のえこひいきなく、悪いことをすれば小さな罪でも必ず罰せられる。

いいことをすれば、どんどん報われていく。

たったそれだけのシンプルで真っ当な政治でした。

西暦200年ごろの当時は、法律が役に立たないことも多く、悪いことをしても罰せられなかったり、善人がみすみす死んでいくようなこともよくありました。

こういったことがあると、あっというまに国は腐っていきます。

「どうせ権力のあるやつばかり報われる」

「がんばっても仕方ない」

「やる気なくした、他の国に行こう」………

そんな状況を改善するのは、真っ当な政治という、最も地味で最も愚直な道しかないのです。

諸葛亮のもとにいた人々は、とてつもなく小さな罪でも善行でも、諸葛亮が自ら目を光らせて、必ず見ていることに気づき始めました。

そうなると、悪いことはやりにくくなり、善行は進んでやろうという気になってくるものです。

これが蜀を動かした諸葛亮の魅力であり、同時に、諸葛亮が過労死した原因でもありました。

蜀の記録にこのようなものがあります。

『諸葛亮の政治には不公平さがなかった。

身分の高い者から、平民に至るまで、常に公平で平等だった。

処罰は罪人すら納得がいく筋道の通ったものだった。

やましいことのない者は胸を張って歩き、やましいことのある者はおびえて暮らした。

だから、誰もが彼を恐れ、彼を愛した。』

このような記録から、諸葛亮が厳しくも優しく、公平かつ正しく政治を行っていたことが分かります。

諸葛亮はとにかく政治を風通しよく行いたい願いがあり、部下たちにも、

「わたしの過去の友人でただ一人、徐庶だけは、厳しい言葉でも政治を良くするための言葉は平気で吐いた。君たちも、立場や身分などに癒着したりとらわれたりせず、徐庶を見習って、厳しくとも正しいことは訴えて欲しい」

と伝えています。

諸葛亮の死後、あっというまに政治は腐っていきましたが、これほど難しい国家を1人でまとめきったところは正に天才内政家です。後世の皇帝が、「彼のような人材がいれば」と嘆くことにも納得がいきます。

5度の大規模侵攻は成功だったのか

複雑な国家をまとめ、全国力で行った5回にも渡る魏への大規模侵攻。

長安奪取はならず、わずかばかりの土地を手に入れるだけで終わりましたが、これらの侵攻は成功だったのでしょうか、失敗だったのでしょうか。

そもそも戦争をすることには意味がある状態でしたし、まず勝つことなど見込めない状況でした。

国力が圧倒的に違う上に、相手も同じく天才の司馬懿。

しかも、司馬懿は蜀の事情をよく見越しており、圧倒的な国力で『防御』することを選びました。もともと強い相手が防御でひたすら耐え、諸葛亮の食料切れを待つという、このめちゃくちゃ嫌な戦法。

ボクサーで言うと、鉄の鎧を着た上で、自宅にこもって窓から槍で攻撃してくるようなこの戦い方、非常に理にかなっており、蜀に対する最も効果的な方法であったと言えるでしょう。

全国力をかけた戦いは、すべて阻まれて終わりました。

しかしこれが諸葛亮のすごいところで、全国力をかけ、毎年のように侵攻していても、なんとまったく国力を落としていないのです。

諸葛亮の死後、姜維がこれを真似し、大規模侵攻を行ったところ、国民に対する負担は急増。

そもそも、西暦200年ごろの当時、食料や軍備を用意することすら並大抵のことではありません。

諸葛亮のかわりに内政を務めた黄皓の最低なわいろ好きもあり、あっという間に国力はガタ落ちし、滅亡へと一直線に進みました。

諸葛亮が天才的な内政の手腕を持っていたことが見て取れます。

軍師としての評価は低い諸葛亮ですが、同情的に見れば、戦いの条件があまりにも悪すぎたとも言えるでしょう。これらの侵攻で司馬懿に勝てなかったとはいえ、負けてもおらず、これだけで才能がないとするには、判断材料が少な過ぎます。

司馬懿と諸葛亮の立場が逆だったとすれば、間違いなく諸葛亮もウルトラガード戦法を使っており、それを司馬懿が打ち破れたかどうかは微妙なところです。圧倒的な戦力差で入念にガードし、戦いすら行わないということは、孫子の兵法にもかなった正攻法です。

どうしようもなくなって引き返したり、ついには過労死した諸葛亮が残した陣形を見て、司馬懿はその陣形の素晴らしさに、『天下の奇才なり』と評価しました。

敵からなげられたこの言葉こそが、諸葛亮の本質を表していると言えるでしょう。

諸葛亮が愛される理由

諸葛亮は結局天下を統一できず、優秀な人材のいない蜀で、ひたすら1人で政治を行ったため、ついには過労死しました。

司馬懿の、とてつもなく長い期間に渡る防御戦法は、過労死待ちでもあり、それが見事に功を奏した形です。

諸葛亮は今でも天才として愛されていますが、決して欠点のない人物ではありません。

ある程度の年齢になってから世に出たため、軍隊や政治の経験が少なく、人を見る目だけは確かだった生前の劉備から、「馬謖は口先だけだから使うなよ」と言われていたにも関わらず、劉備の死後、馬謖を重用して大切な戦いに失敗しています。

馬謖の重用にも、もちろん政治的・軍事的な意味合いがありますが、失敗であることに変わりはありません。

諸葛亮はこの時には自分の愚かさを認め、皇帝・劉禅に自分を罰することを求めたものの拒否されます。そのため自分で自分を罰し、自らの地位を下げました。

諸葛亮が愛されているのは、行動からにじみ出る真面目な人柄と、あまりにも苦境だらけの人生を、孤独に戦い続けたことです。

諸葛亮は決して身分に恵まれたわけではなく、どこにでもいる1人の青年に過ぎませんでした。

1人で立ち上がり、苦難だらけの人生に後ろを向かず、現実から逃げ出さず、過労死するまで前向きに努力し続けたことが、ただの成功者ではなく、長く人に愛される理由になっています。

また、悪いことをしようと思えばいくらでもできた立場ですが、そんなことには何の色気も出していません。

劉備が劉璋の蜀を乗っ取るのを手伝った、劉璋の家臣・法正は、自分の国を裏切って乗っ取りを手伝った上に、その後劉備に愛されて高い身分を与えられたため、蜀で好き放題。自分が若い頃に恨みを持った相手らをいいように処刑しまくるという、とんでもない鬼畜っぷりを見せています。

法正以上に国を好きにできる立場でありながら、自らが皇帝になることはなく、義理人情と忠誠を守りつづけたのは、今も諸葛亮が愛される理由のひとつでしょう。

諸葛亮は青年時代、自らを『楽毅』(歴史上の偉人。軍事、内政の天才)と並ぶ才能があると誇っていましたが、楽毅のような軍事の才能を見せる機会なくこの世を去りました。

しかし、諸葛亮が蜀の内政で見せた天才的な手腕は、楽毅に勝るとも劣らず、正に偉人だったといえるでしょう。

また、戦乱の世でありながら、子孫に残した書物では、子どもたちに真面目に静かに生きることの大切さを説く姿が残されており、後世でも魅力的に映ります。

中国では、世の中が暗くなるたび、諸葛亮を愛する声が高まったということです。

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