中国のみならず、日本でも天才軍師だと愛されている諸葛亮。
若い方にはゲームなどでもなじみが深いと思いますが、どのゲームに出ても天才キャラは当たり前、知性と策略に優れるイメージがあります。
実際に中国では『三人よれば諸葛亮の知恵』ということわざがあり、これは日本でいう『三人よれば文殊の知恵』に相当し、知恵の神と同格化されていることが分かります。
それほど後世で天才だと尊敬されながら、中国を統一できず、三国で最も早く滅んでしまった蜀。諸葛亮はなぜ中国を統一できなかったのか?天下三分の計とはなんだったのか?そんな諸葛亮について、わかりやすく解説いたします。
そもそも天下統一の計ではない、天下三分の計
小説、漫画、ゲームの影響で誤解されている『天下三分の計』ですが、これはもともと天下を統一するための計略ではないのです。
当時、飛ぶ鳥落とす勢いで勢力を拡大していた曹操たち。
そんな中、かつては曹操たちと一緒に黄巾賊討伐をしていた劉備は、自分の国を持たず、孫権のところに居候させてもらっているニート的存在でした。
「みんな出世してるのに、いい年こいてぼくニートですよ!!なんかいい方法ないの?王になれるような方法ないの!?」
こんな時、劉備に最善のアイデアを示してくれたのが諸葛亮だったのです。
「中国はめっちゃくちゃ広いんで、中国の端っこのほうで勝手に王になったらいいんじゃないですかね?ちょっと近くに攻めこむだけでも、歩いて1ヶ月くらいかかる時代ですから。守るだけなら余裕でしょう。
ちょうどあなた、今孫権の客将なんで、孫権の力を利用して蜀を攻めたらいいんじゃないですかね?」
このアイデアに劉備は感激し、王になりたい野望は隠し、孫権の力を利用して蜀を攻めます。そして蜀を奪い取った後、自らが王となって『漢』(現在は一般的に蜀と呼ばれる)を建国したのです。
踏み台にされた呉の恨み
孫権は、劉備のことを完全に自分の部下のつもりで、周瑜が生前となえていた『天下二分の計』を実現させるために動かしていました。(蜀を奪い、天下を魏と呉で二分するというもの)
そのために劉備に蜀を取ってもらったところ、いきなりクーデターで建国されたため、その後ずっと呉は蜀を憎み続けることになります。
大国である魏を前にして、蜀と呉がまるで連携せず、魏を攻めている関羽を背後から呉が殺してしまった件など、すべてこういった経緯の怨恨が理由になっています。
また、天才である曹操が、なぜ劉備が蜀を取るのを一切邪魔せず、攻撃せず、指をくわえて見守っていたのか?この答えもここにあります。劉備が孫権の客将だったからです。
劉備が蜀を攻撃していた際、曹操は「呉が勢力を広げてはこまる!」と、連続して呉の本拠に襲撃を加えています。
劉備を直接攻めなかったのは、劉備の本拠地が呉であったからです。劉備を止めるためには孫権を攻撃するのが正道であり、こういった事情からも、劉備が行ったのは非常にずるいクーデターであったことが分かります。
劉備が蜀を取って建国してから、すぐに曹操は劉備が治める漢中に攻撃を仕掛けますが、この時ようやく、孫権と劉備が別々の道を歩み始めたことが見て取れるでしょう。
残したのは踏み台にされた呉の恨みという、深い負の遺産でした。
天下三分の計の実質
こうして天下三分の計により、曹操、孫権、劉備が、それぞれ自分の国を建て、その君主となりました。
劉備に至っては、「ぼくの苗字は、昔の正統な皇帝から続く『劉』だから!完全に正統な皇帝だから!」と主張し、自分の苗字が『劉』であるのをいいことに、自分の国が『正統な王朝』であると主張します。
曹操が名乗っている皇帝は偽物であり、だからこそ曹操を倒すと国をあげて盛り上がっていたのです。
その直後、呉はすぐに「おれも皇帝でした!!今気づいた!!」と言い始めます。
世界に1人しかいないはずの皇帝がどんどん誕生。これは蜀の言い分をまったく無意味にするものであり、本来は許されないはずですが、諸葛亮は完全に沈黙。
呉を攻めようとせず、むしろ呉に「皇帝おめでとう!」と誕生日感覚で使者を送って仲良くしようとしています。
正統な皇帝だの王朝だの、そんな話は、すべて国民を納得させるための方便。
そもそも劉備より先に蜀を治めていた、劉備と同じく皇帝の末裔である『劉璋』を、完全にフルボッコにして蜀を奪い取った劉備。
やっていることはほとんど盗賊と変わらないわけですが、国を治めるためには『大義名分』が必要なのです。それこそが『正統なる王朝(苗字が一緒だから!)』というものでした。
ちなみに劉と名のつく人物は曹操の魏にも、孫権の呉にも、挙げ句の果てには黄巾賊にもおり、特に珍しい話ではありません。
これは日本で言うと、選挙で、「苗字が『織田』だからおれが総理大臣な!昔、織田信長がめっちゃすごかったし!」というようなもので、それを言うならスケートの織田も総理大臣だろ!と突っ込まれてもおかしくありません。
天下三分の計とは、「ニート辛いよ~」と嘆いていた劉備を、一国の主にするための計略。
ほとんど山賊に近かった劉備をとりなし、権力を持ってもらうための策略です。
また、それこそが諸葛亮にとっても夢のある話だったといえるでしょう。
諸葛亮の夢と現実
諸葛亮は幼いころ、自分の故郷を曹操に攻めこまれ、村人を大量に虐殺されています。
だからこそ大国である魏には仕えず、自分の才能を『歴史上の天才軍師と同等』と考えていた諸葛亮は、自分が活躍できる場所を探しはじめます。
呉は豪族の集まりで、今でいう気の強いヤクザの連合軍に近く、豪族のパワーバランスや、血縁関係やコネクションも大いに関わっているため、自分が世界を変えるような才能を発揮できる場所ではありません。
しかし、目の前にいるこの劉備、人気はあるが実力はないというおばかタレント。
曹操のように「自分でやります」という実力がないために、まさに諸葛亮を必要とし、諸葛亮にとって最も仕事のやりがいのある相手だと言えるでしょう。
こうして取り組まれた天下三分の計は、劉備にとっても、諸葛亮にとっても正に現実的な夢だったのです。
天下を治めることなど二の次であったと言えます。
まずは地方政権であってもいい、国を建てること。そしてそこから、関羽が治める荊州と劉備の漢中、さらに呉と協力関係を結び、3箇所から同時に魏に攻めこむつもりでした。
もちろんそのためには呉との信頼関係が不可欠であり、劉備・諸葛亮は呉に何度も使者を出しています。
「どさくさに紛れて、勝手に呉が取ろうとしていた土地をほとんど取っちゃって、しかも自分が王になって治めちゃってごめんね!
でもこうなった以上、一緒に協力したほうがいいと思いますよ!蜀と呉がケンカして弱ったら、そこを曹操に狙われるし、絶対協力がいいって!!
魏をちゃんと倒せたら、お礼はするから!中国は蜀と呉で治めよ!
ね!いい方法でしょ!これ天下三分の計!」
実際、利益だけを考えると、呉は蜀に協力して魏と戦ったほうが利益があります。
魏も、「蜀と呉が本気で手を組んだらやばいって!」と脅威に感じていた記録も文献に残っていますが、蜀と呉は最後まで手を組めませんでした。
呉は、蜀に対する恨みを捨てきれなかったのです。
呉が関羽を攻める際には、わざわざ「魏の仲間になりますんで!」と宣言して、魏に襲われる危険を排除してから関羽を狙ったり、関羽を殺した後に「やっぱりあの話やめますわ!」と撤回するなど、とにかく蜀をどうにかしたいという強い恨みが見て取れます。
当時、魏と呉が権力を持っていた時代に、何の身分もない劉備たちが『蜀』を建国できたのは素晴らしい功績ですが、完全に呉を踏み台にしていたことが最大の欠点でした。
そうしなければ建国することは不可能でしたが、人の恨みとは、利害や理屈を越えるほど大きなものだったのです。
小説、漫画などとは違って、現実的で非情な天下三分の計ですが、知略、智謀、陰謀がうずまく時代、政治家たちは夢だけで国を建てられるほど甘くはありません。
むしろ、天下三分の計がこのようなものだったとしても、諸葛亮の価値は落ちませんし、天下三分の計はまだ諸葛亮のAメロ。
今後、優れた内政家、政治家として名前を残していく諸葛亮のBメロ以降はまだこれからであり、ファンの方には安心していただきたいと思います。
次回は、諸葛亮が、まず勝てないと思われる魏への攻撃を、国家のすべての財産をかけて何度も繰り返した理由と、天下を統一できなかった理由についても解説していきたいと思います。