今から100年ほど前、南極大陸の横断に挑戦したイギリスのシャクルトン探検隊。
南極大陸にたどり着くことも出来ずに、海面が凍り氷の中に閉じ込められ、氷の圧力で船はねじり潰され、誰もが死を覚悟しましたが、奇跡的な行動力で28人全員が生還を果たしました。
当時、『世界の底』と言われる南極で遭難し、奇跡的な生還を遂げたことは、今でもイギリスでは長く語りつがれています。
しかし、シャクルトンたちの50年ほど前、シャクルトンたち以上の軍艦、129名もの探検隊を結成し、北極へと旅立ったフランクリン隊は、二度と戻ってくることができませんでした。
フランクリンは数々の過酷な探検を乗り越え、イギリスでは英雄として尊敬されていた存在。
探検チームも、数々の北極探検から生還した人間を揃えていたというのに、なぜ彼らは帰ってくることができなかったのでしょうか?
今回は、悲劇の探検隊・フランクリンたちの物語にスポットをあててみたいと思います。
イギリスの英雄、フランクリン
フランクリンは幼い頃から海軍に憧れる、勇敢な青年でした。
ナポレオンの戦争にも加わり、数々の戦場をくぐり抜けてきた、非常に屈強な人間でもあります。
34歳の時に初めて挑戦した北極圏の徒歩探検では、20名の探検隊のうち9名が餓死で死亡、生き残った男たちは木のコケ、革のブーツまでかじったという凄惨な状況ながら、最後まで生き残り生還しました。
イギリスでフランクリンは、『ブーツを食べた男』として広く名前を知られるようになります。
その後も2回の北極探検に成功した彼は、タスマニアの副総督にまで出世し、フランクリンの死後、タスマニアで銅像が建てられるほど広く慕われている人物でした。
そんなフランクリンが59歳のころに舞い込んできた、4回目の北極探検の旅。
その目的は、これまでイギリスが地図上で発見できていない、未知の部分を横断すること。
船で横断する探検であり、隊長は船からほとんど降りる必要がなく、かつて苦しんだ徒歩探検とはまったく違います。
59歳の肉体でも可能な探検であることは、フランクリンの胸を強く動かしました。
当時、最新鋭の軍艦が二隻集められ、スチーム暖房が取り付けられた艦内には、なんと3年分もの保存食と缶詰が常備。いつでもきれいな水を飲めるように、真水供給装置まで取り付けられました。
さらに、当時の探検隊を恐れさせていた壊血病(ビタミン不足で死に至ること)を防ぐため、キャプテンクックの旅で効果が証明されたレモンジュースも準備されます。
すべての不備を想定し、ありとあらゆる最新鋭の技術が整えられた探検隊。
その旅は1670キロの予定でしたが、日本の本州横断で2000キロ、シャクルトンたちがボートで助けを求めた距離が1500キロですから、長旅ではあれども、勇敢な精鋭たちと最新鋭の装備であれば、決して乗り越えられない旅ではないと考えられました。
129名は万全の準備で2隻の軍艦を出航させました。
軍艦2隻の艦名は、『エレバス』と『テラー』。
地獄と恐怖と名付けられたその軍艦は、まさしく、避けられたはずの地獄へと、129名をいざなっていくのです。
氷の海に閉じ込められ、食べられるはずの食料が、ない
北極は、南極大陸のように過酷ではないとはいえ、人類が旅するにはあまりにも厳しすぎる場所です。
キングウィリアム島周囲を進んでいたフランクリンたちは、海面が凍る力によって、氷に閉じ込められ、移動することができない状態に陥りました。
当時の探検隊によく見られた事故であり、これを乗り越えるためには、氷が解けるのを待つほかはありません。
何も問題ないと考えられていました。
3年分もの食料と、きれいな水、あたたかい船内、動力を得るための蒸気機関、なにもかもすべてが揃っています。
氷に閉じ込められることも想定しており、時間がかかっても、遭難するはずのない旅でした。
それなのに、あっというまに3人が死亡してしまいます。
英気を養うはずの待機時間で、次から次へと体調を崩していく船員たち。
さらに体調だけではなく精神状態まで崩れ、屈強だった男たちが、みるみるうちに乱れて不安定になっていきます。
なぜこんなことが起こっているのか、原因がまったく分かりません。
心も体も弱り、次から次へと死亡者が増え、ついにフランクリンまでもが死亡し、死者は24名にものぼりました。
1年半後にも氷は溶けることなく、残された105名は船と食料を捨て、徒歩で脱出を試みます。
3年分の食料があるというのに、なぜ食料を捨てて、徒歩で脱出するのでしょうか?
しかも、400キロ離れた場所には、フリービーチと呼ばれる避難所があり、そこへ向かえば大量の缶詰も用意されているため、命をつなぐことが出来ます。
過去にここを利用した隊員もいるというのに、なぜか食料もない、まったく違う地域に向かって足を進め、全員が死亡するという凄惨な結果に陥っています。
なぜ?
なぜ避難所に向かわないのでしょうか?
まだ食べられる缶詰があるのに、なぜ缶詰も持たずに船を出るのでしょうか?
缶詰は、食べてはならない強烈な毒だったのです。
当時のイギリスで開発された、最新鋭の缶詰。
特許が取られた素晴らしい発明でしたが、食料を任された業者であるゴールドナーが缶詰を発注したのは、なんと出発のたった3ヶ月前。
現代的な工場もなかった150年前の当時、数千個の缶詰を製造するのは困難であり、特許技術が十分に使われることなく、雑なはんだ付けをもちいながら、急ピッチで製造が進められました。そのため、はんだに含まれる鉛がたっぷりと食料に溶け込みます。
更に、缶詰の中身を提供した業者が悪徳業者であり、探検用の大型缶でもあるにも関わらず、小型缶程度の煮沸消毒しか行わなかったり、量を水増しするため、腐った肉、おがくず、小石までもを缶の中にまぜて納入していたのです。
研究によると、死亡した隊員の体からボツリヌス菌の菌株が発見され、深刻なボツリヌス菌中毒を起こしていたのではないかとまで言われています。
また、いつもきれいな水を手に入れるために使われた真水供給装置は、当時の蒸留機関の技術が未熟であったことから、大量の鉛が含まれていたことが分かっています。
大量の鉛が含まれた水を飲むと、あっというまに鉛中毒に陥ることになります。
鉛中毒で死ぬことはあまりありません。
しかし、激しい腹痛や、嘔吐、貧血、高血圧などで体調は壊れ、更に精神的には、人格が変化し、感覚がなくなり、激しい脱力感に襲われていきます。
文明から孤立した船内で、食中毒や鉛中毒に襲われ、やがて、レモンジュースも効かず壊血病になり、なにもかも壊れていった探検隊員たち。
缶詰を持たずに船を飛び出したのは、もしかすると、缶詰が強烈な毒であることに気づいていたからでしょうか?
缶詰が貯蓄された避難所に向かわなかったのは、缶詰が自分たちを壊してしまったと知っており、もう信用できないと感じていたからでしょうか?
残念ながら、詳細はほとんど分かっていません。
唯一残された探検隊の言葉が、手紙として缶詰の中から発見されています。
フランクリンと隊員の手紙
参照・Wikipedia
この手紙の中心に、大きく整って書かれている部分は、フランクリンが元気な時に書かれたものです。
『なにも起こっていない。氷の中で冬を越そうとしている。すべてが順調だ』
というたメッセージ。
では、周辺の余白に、縦も横もなくびっしりと書かれた、あわてふためいたような字はなんでしょうか?
これは、フランクリンがこの手紙を書いた1年後に追記された、残された隊員の手による遺書に近いメッセージでした。
フランクリンが手紙のたった18日後に死んだこと。
この手紙から、1年半も氷の中に閉じ込められ続け、次から次へと隊員たちが死亡していったこと。
生き残った105名は、これから船を捨て、400キロ先(東京-大阪間ほど)のバック川まで徒歩で脱出することなどが書かれていました。
『この手紙を拾った方は、その日付とともに、この手紙を英国領事館に届けてほしい』…
その後の彼らがどのようにして過ごしたかは、歴史の闇に閉ざされています。
フランクリンの夫人は、私財をなげうって捜索隊を出し、少しずつ、探検隊の遺体から、当時の状況が分かるようになっていきました。
105名いたはずの探検隊たちは、極限状態での争いなのか、鉛中毒の不安定さからか、喧嘩別れをし、複数のチームに別れたようです。
そして、誰もが、病や飢餓で亡くなっていました。
どうすれば彼らは助かったのか
当時としてはどうしようもないことでしたが、真水供給機が原因と考えられる鉛中毒に関しては、絶対に防がなければならない大きな遭難理由のひとつでした。
缶詰も、業者を正しく判断し、納入品をチェックする仕組みが必要であったといえるでしょう。
さらに、フランクリンが通ったキングウィリアム島の西側コースは、夏でも氷が溶けにくい地域にあたります。
もしも東側を通っていれば、氷が解け、最悪でもイギリスに帰ることが可能だったでしょう。
もし氷に閉ざされ、食料がなくなっても、訓練されている陸軍であれば、徒歩で脱出することも可能だったかも知れません。
しかしフランクリン隊は海軍であったため、陸の行軍には装備・経験共に向いておらず、ブーツも防寒具も持っていなかった彼らに、400キロの旅は到底不可能だったとも考えられます。
また、1年半もの籠城の中で、地元住民のイヌイット族に、何らかの方法で助けを求めることもできたのではないかと言われています。
イヌイット族は北極圏の生活に精通し、氷に閉じ込められない浅瀬専用の船を作るなど、昔ながらの生きる術を多く持っています。
しかし、帝国海軍であるフランクリン隊は、そのプライドからイヌイット族に助けを求めることが出来ず、最後までそれを譲れなかったことも悲劇を招いた一因なのではないかと言われています。
参照・Wikipedia
フランクリンたちの航路。5から出発し、6が目標地点だったが、緑色のキングウィリアム島西側で氷に閉じ込められた。近くの陸地まで歩いて脱出する計画だった。
最後の状況
フランクリン隊の末路は、イヌイット族の目撃証言によって語られています。
『船の中に閉じ込められた白人たちは、くちびるが黒くなり、肌がただれていたようだった(壊血病の症状)。
また、バック川の近くで、キャンプが張られたまま、40人近い人数が死んでいた。肉がまったくない骸骨が残されていた。
なぜか彼らは、本や書類、銀の食器など、信じられないくらい大量の品を持ち歩いていたが、食料はひとつもなかった。
本、メモ、手紙のようなものは、子どもたちがおもちゃにしてしまったのでもうわからない。
キャンプの近くにはボートがあり、こちらにも骸骨が散乱していた。
今でもこのあたりには白人の霊が出るため、近寄らないようにしている』
フランクリン隊は古式ゆかしく、伝統や儀式を大切にしていました。
探検にまったく不要である銀の食器など、個人の所有物を大量に持ち込み、脱出時にもそれを肌身離さず持っていたのです。
なぜこんなものを持ち歩いたのか、イヌイットとの取引に使うためだったとも言えますが、すべての記録がなくなってしまった今、真相はすべて闇の中です。
2014年、沈没したエレバス号がついに見つかる
(Photograph by Parks Canada)
2008年からイギリスで捜索が続けられていた、エレバスとテラーの軍艦二隻。
2014年、ついにエレバス号が見つかり、世界中に知られるニュースとなりました。
船は北極の海に守られ、150年前とは思えないほど保存状態がよく、今後は船内の調査も可能なのではないかと言われ、数々の遺品も見つかっています。
(Photograph by Parks Canada)
当時の姿をそのままに発見されたエレバス号は、世界中を震わせました。
いったい、彼らに何があったのか。
今後の研究が待たれています。
20世紀に入ったイギリスは、南極点への到達を目指して探検隊を結成し、全員が遭難して死亡する結果になった上、35日差でノルウェーに先を越されてしまいます。
北極と南極の探検は、イギリスにとって非常に苦しい傷跡でした。
しかし、数々の悲劇から教訓を得て、4度目の探検隊であるシャクルトンたちが、探検に失敗しても全員生還できたのは、イギリスに残された唯一の希望だったと言えるでしょう。
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